渡具知地区の強制接収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 02:11 UTC 版)
「トリイステーション」の記事における「渡具知地区の強制接収」の解説
1945年4月1日、米軍は渡具知海岸 (Hagushi Beach) から上陸、渡具知前ヌ浜はイエロービーチ(Yellow Beach)と名づけられ、以後、 工兵資材集積所 (Engineer Dump) として物資の陸揚げ拠点となった。 1949年、渡具知住民に帰村許可がおり、1950年には渡具知集落への帰還・移住が実現した。 1953年1月、米国民政府は住民へ立ち退きを通告するが、住民は琉球政府主席に通告の撤回を要求する請願書を提出。これに対し、米軍は後に「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制接収にのりだす。これにより住民は立ち退きに応じ、その年の8月13日、比謝後原へ移住した。 1954年、「楚辺戦略通信所」の建設のため、再び強制接収され、住民は比謝西原への集団移住を余儀なくされた。 1973年、長年にわたる抗議運動の末、「旧楚辺戦略通信所」の部分返還が決定した。「復帰先地公共施設整備事業」が実施され、渡具知の住民の帰村はそれから3年程かけて実現した。 1973年9月15日、米軍は南側に隣接する渡具知・古堅地域「旧楚辺戦略通信所」(ストラトカム受信施設) のアンテナ地区の大部分1,315,000㎡を返還した。
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