清泰院 (毛利輝元側室)とは? わかりやすく解説

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清泰院 (毛利輝元側室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/17 07:40 UTC 版)

清泰院(せいたいいん、元亀3年(1572年[1] - 慶長9年閏8月1日1604年9月24日) )は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。毛利輝元側室。初め、杉元宣の妻。初代長州藩主・毛利秀就、初代徳山藩主・毛利就隆竹姫吉川広正正室)の生母。

名は周姫(かねひめ)[2]広島城二の丸に住んだために、二の丸殿と呼ばれる。清泰院は院号(院号は快楽院とも[3])。

生涯

元亀3年(1572年)、毛利氏の家臣・児玉元良の娘として誕生した。

『古老物語』によると、幼少の周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りかかった輝元の目に留まり、その後、輝元は周姫を目当てに、しばしば元良の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に周姫を周防杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく、天正14年(1586年)に元宣が筑前に出陣すると、佐世元嘉らに命令し、周姫を強奪して自身の側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)に大坂豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により、野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み、「二の丸殿」として輝元の寵愛を受けた。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元の正室である南の大方の嫉妬によるものとされる[4]

その後、文禄4年10月18日1595年11月19日)に秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日1602年10月17日)に就隆を出産している。通説では、秀就を広島城で生んだとされるが、正室である南の大方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある(詳細は毛利秀就を参照)[4]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の敗戦における毛利家の転封により、広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。萩に入ることができなかったのは、正室である南の大方が許さなかったからといわれている[4][注釈 1]

慶長9年(1604年)8月1日、覚皇寺で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた[5]法名は清泰院殿栄誉周慶大姉。

明治になって、山口市の香山公園(瑠璃光寺)にある毛利家菩提所の裏に墓が移された。

姫山伝説

山口には「姫山伝説」なるものが伝えられる。伝説の内容にはバリエーション[6]が多いものの、概ね次のようなものであり、二の丸殿との関連が推測される話となっている[4][7][8]

  • 山口の城下町には大変美しい長者の娘がいたが、それを見初めた殿様が側に置こうとした。婚約者のいる娘はそれを拒むが、断りに行った長者(父)は帰って来なかった。怒りの収まらない殿様は、頑なに拒む娘を捕らえて姫山の古井戸に吊すと、蛇を投げ込んで娘を苦しめる。娘が死ぬ間際に「美しく生まれたために私は不幸になった。後世の女の人が同じように苦しみまないよう、この山から見渡す土地には美人を生まれさせない」と呪ったため、山口には美女が生まれなくなった。

脚注

注釈

  1. ^ 長門国萩城着工は慶長9(1604)年からであり、毛利輝元が初めて萩城に入ったのが落成前の同年11月。清泰院はこれ以前に亡くなっているため、南の大方の意向とは無関係である。

出典

  1. ^ 錦帯橋-上巻-輝元と周姫 二 中野グラニット
  2. ^ 錦帯橋-上巻-輝元と周姫 一 中野グラニット
  3. ^ 小川宣『周南風土記』文芸社、2006年 40頁
  4. ^ a b c d 山口県宇部市にある財満屋敷跡の説明板「二の丸様の顕彰碑」(二の丸様顕彰会)
  5. ^ 善生寺庭園 - 山口県の文化財(山口県教育庁社会教育・文化財課)
  6. ^ 姫山伝説 - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  7. ^ 姫山伝説を描く - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
  8. ^ 山口)「山口に美人は生まれぬ」姫山伝説とは? - 朝日新聞デジタル(2014年9月9日)

参考文献

  • 萩市史編集委員会 編『萩市史』 第1、1983年。 

関連項目



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