法の鏡という法門と清浄行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 04:21 UTC 版)
法の鏡という法門は、立派な弟子の場合は、この法門によって自分の運命を見極めることができるとしたものである。「わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところ(地獄)に堕することもない。・・・わたしは必ずさとりを究める者である」というように、ゴータマの教えを深く学んだ人は誰でも、さとりの道のある段階に達することによって、誰もが善友とともに何転生かののちには清浄行を究めることが見極められることができるようになるとされている。 230 深い智慧ある人が説きたもうたもろもろの聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。このすぐれた宝は〈つどい〉のうちにある。(スッタニパータ)とされていて、さとりの道に到達した人(預流果を得た人)は、大きくわき道に逸れることがあっても、第七回の生存までにニルバーナを得るということが述べられている。 これは、〈つどい〉とされている善友という観点から見ると、さとりの道に到達した人は、それ以降の転生を善友として修行完成者が見守っているというようなことであり、さとりの道に至った在家の人は、(パンダカのように)それ以降の転生をさとりを究めるという目的にそって、人生を設定して生まれてくるようになると説いているようでもある。
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