河田の成立と中世
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「川田町 (鹿児島市)」の記事における「河田の成立と中世」の解説
河田という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国満家院のうちであった。河田村、河田名とも称していた。鎌倉時代の天福元年(1233年)「紀道房外二名連署契約状」に満家院河田村と見え、この中で満家院司の大蔵永平娘(菩薩房)の息である栄尊(重賢)に川田村を付与されるように税所義祐ら満家院司を説得することが約された。寛元5年(1247年)には正式に菩薩房から栄尊に川田村など5村が付与された。建長5年(1253年)には栄尊(重賢)から川田などの惣領職が嫡子の祐範に、川田名代官職が三男の宮次郎に譲与された。「比志島系図」によれば宮次郎はその後、川田村を領して川田氏を称した。 戦国時代の文明17年(1485年)には川田村にあった川田立昌の川田城(築城年不詳)を島津氏豊州家の島津忠廉が攻撃した(川田城合戦)。川田立昌は川田城を守備して島津忠廉を退けた。川田氏11代当主の義秀の子川田義朗は島津義久の軍師として知られ、子供時代は伊集院忠朗の教育を受け、相州島津家の重臣として市来城や岩剣城、馬越城などを攻略した。川田義朗が垂水郷の地頭に移され、以降川田の地は島津氏の直轄領となり、川田氏による支配関係もなくなった。 安土桃山時代になり、天正15年(1587年)には島津義久によって川田城を豊臣秀吉の上使衆へ明け渡すことが命じられた。
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