江陵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:24 UTC 版)
曹真・夏侯尚らは数万以上の軍勢を率いて江陵を攻撃、辛毗はその軍師として従軍した。張郃は孫盛の救援軍を打ち破り、孫盛の陣地があった長江の中洲を占拠し、夏侯尚は中洲に陣地を設け、浮橋を作った。孫盛に代わり、諸葛瑾と潘璋が朱然の救援に派遣された。諸葛瑾は中洲を占拠したが、夏侯尚は火攻めで諸葛瑾を撃破し、朱然は孤立無援となった。 曹真・夏侯尚・辛毗・張郃・徐晃・満寵・文聘らが朱然が守る江陵を攻撃包囲したが、土山を築いて矢を射掛けたり地下道を掘ったりしたが、しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い城外に出て魏軍の2つ陣地を打ち破った。諸葛瑾は敗兵をかき集めて、再度魏軍を攻撃した。潘璋が長江の上流に赴き、葦を刈って大きな筏を作り、気候が温暖となって川の流量が増えてきた時期に火を放って流し魏軍の浮橋を焼き払おうとする。 軍師として曹丕の側についていた董昭は、潘璋・諸葛瑾が二方面から攻撃をかけているのに対して夏侯尚の浮橋は一本しかないこと、時期的に長江の水かさが急激に上昇する可能性があることを指摘し、夏侯尚軍を撤退させることを提案した。潘璋は火攻の計画を実行に移す前に曹丕は勅命を下して夏侯尚を撤退させた。曹真・夏侯尚などは中洲から撤退、諸葛瑾は浮橋に攻撃をかけて魏軍を撤退に追い込んだ。朱然の江陵城籠城は半年余り及び内応騒ぎや疫病騒ぎが起きたものの朱然は内通者を処刑するなど問題に対処し、結局江陵城は落城しなかった。
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