江田父子との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/18 21:21 UTC 版)
山岸は1954年に左派社会党に入党し、1960年代からは社会党江田三郎派の活動家として活躍し、大阪を江田派の拠点とするために尽力している。1977年、江田三郎が社会党を離党したとき、山岸は江田の離党に反対で、江田と一時連絡を取らなかった。しかしその直後に江田三郎が急死したため晩年に相談に乗れなかったことを悔い、山岸は贖罪のため江田三郎の息子の江田五月や、江田五月が党首を務める社会民主連合(社民連)の国会議員の選挙の面倒を見た。 1993年に細川内閣が発足したとき、連立与党の党首は全員入閣することが決まったが、社民連は議席数が少なかったため江田五月の入閣は見送られていた。山岸は連立与党の実力者であった小沢一郎に掛け合って、江田五月を科学技術庁長官として入閣させてもらうことに成功したが、江田五月はそのポストを「つまらない」と不満を示したため、山岸は江田五月の慢心を厳しくいさめたと言う。
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