民衆の反発・不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:15 UTC 版)
「マルセロ・カエターノ」の記事における「民衆の反発・不満」の解説
さらに1973年6月に政府が徴兵を受けた従軍中の大学卒業者の兵士を優遇する政策を発したことで、彼らは決定的に反政府へと転じるようになった。下層出身者が士官学校を4年間かけて卒業して手に入れた将校の地位に、大学に通える資産があるだけのアマチュアが1年で就いて同格になることへの強い反発があった。たまたま押し寄せたオイルショックの影響はポルトガルの経済に短期的かつ重大な打撃を与え、カエターノ政権がこれにうまく対処できなかったため、民間でも不満が高まった。1974年には左派青年将校らによる国軍運動(MFA)が決起し、アンゴラ・モザンビーク・リスボンの各地からカエターノへの抗議文が提出された。軍部からの反発に虚を衝かれたカエターノは、責任者の処罰といった対応を取る時間も無く、カーネーション革命が勃発した。包囲されたカエターノらは投降し、翌日にはトマス大統領と共にマデイラ島へ移され、数日間滞在した後にブラジルへ亡命した。リオデジャネイロに定着した彼はガマ・フィーリョ大学の法学研究所長として雇われ、学業を続けた。1980年10月に同地で没した。
※この「民衆の反発・不満」の解説は、「マルセロ・カエターノ」の解説の一部です。
「民衆の反発・不満」を含む「マルセロ・カエターノ」の記事については、「マルセロ・カエターノ」の概要を参照ください。
- 民衆の反発不満のページへのリンク