毒饅頭事件の虚構性について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 10:03 UTC 版)
16歳で亡くなった忠継の死には以下のような伝説がある。 忠継の母・督姫が実子の忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が掌に「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。 史実として忠継は、慶長20年(1615年)2月23日に岡山城内で疱瘡で死去し、督姫は同年2月4日に二条城で死去しているため、死亡した場所や順番、死亡原因全てにおいて異同がある。池田家は利隆系と忠継系に分かれ、それぞれの子孫が岡山藩と鳥取藩の藩主となっていくが、両方の藩の史料で毒殺は否定されている。加えて利隆の嫡男・光政は忠継の跡を継いだ忠雄が死去した際に、親密な関係を窺わせる追悼歌を残しており、上記のような経緯があったとは考えにくい。 また、昭和53年(1978年)に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。その結果でも毒物は検出されることはなかった。
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