段明
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段 明(だん めい、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)支配下の雲南における第12代大理総管。
概要
第11代大理総管の段宝の息子にあたる。段明が大理総管の地位を継いだころ、中国大陸の大部分はほとんど明朝が支配し、南方では唯一雲南のみモンゴル王族の梁王バツァラワルミの支配が残る情勢にあった[1]。
明朝の側では複数回にわたって梁王を招撫したが梁王はこれに応じず、遂に1381年(洪武14年)9月より傅友徳率いる明軍が雲南に侵攻した[1][2]。『明史』などにこの時段明が傅友徳に送った書の内容が伝えられており、その内容は唐・宋の時代のように朝貢国として認めてもらいたいという内容であった[3]。『南詔野史』などによるとこの時段明は「後理国段明」と称しており、後理国(大理国)の復興を企図していたようである[4]。
しかしこの時既に梁王が敗死していたにも関わらず、投降するわけでもなく朝貢国として認めるよう要求する段明の態度に傅友徳は怒り、「(段氏の)運は既に元代に絶えている」と述べて段明の要求を拒絶した[5]。1382年(洪武15年)閏2月、征南左副将軍藍玉・征南右副将軍沐英ら率いる部隊が大理に攻め込み、段明の息子の段世が捕らえれたことで大理総管による支配は終わりを迎えることとなる[6][2]。
脚注
- ^ a b 林 1996, p. 25.
- ^ a b 奥山 1997, p. 335.
- ^ 林 1996, p. 25-26.
- ^ 林 1996, p. 26.
- ^ 『明史』巻313列伝201雲南土司一,「洪武十四年、征南将軍傅友徳克雲南、授段明為宣慰使。明遣都使張元亨貽征南将軍書曰『大理乃唐交綏之外国、鄯闡実宋斧画之余邦、難列営屯、徒労兵甲。請依唐・宋故事、寛我蒙・段、奉正朔、佩華篆、比年一小貢、三年一大貢』。友徳怒、辱其使。明再貽書曰『漢武習戦、僅置益州。元祖親征、祗縁鄯闡。乞賜班師』。友徳答書曰『大明龍飛淮甸、混一区宇。陋漢・唐之小智、卑宋・元之浅図。大兵所至、神龍助陣、天地応符。汝段氏接武蒙氏、運已絶於元代、寛延至今。我師已殲梁王、報汝世仇、不降何待』」
- ^ 林 1996, pp. 25–26.
参考文献
- 林謙一郎「元代雲南の段氏総管」『東洋学報』78、1996年
- 奥山憲夫「洪武朝の雲南平定戦 (一)」『東方学会五十周年記念 東方学論集』、1997年
- 奥山憲夫「洪武朝の雲南平定戦 (二)」『史朋』 第28号、1996年
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