段慶
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段 慶(だん けい、生年不詳 - 1307年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)支配下の雲南における第4代大理総管。『元史』では阿慶とも表記される。
概要
段慶の出自については第2代大理総管の段実の子とする説、第3代大理総管の段忠の子とする説が混在するが、『元史』や「大崇聖寺碑銘並序」などの記述に従って段実の子とみなすのが主流である[1]。
1325年(泰定2年)作成の「大崇聖寺碑銘並序」によると、段慶は春宮(皇太子)に仕えていた時期があったという[1]。「大理府志」によると段忠が「大理等処宣慰使兼管軍民万戸府」の地位にあった時、段慶は「大理等処宣慰使都元帥」に任じられていたと記される[2]。モンゴル支配下の大理では段氏の長が宣慰使都元帥、それに次ぐ人物が大理路軍民総管を務めるという慣習があり、段慶は前半生で段忠と共同で大理路を治めていた。一方、1307年(大徳11年)に羊苴咩城に建てられた「加封孔子聖詔碑」では阿慶(段慶)が「鎮国上将軍(略)都元帥」、信政(段正)が「明威将軍・大理路軍民総管」とされており、治世の後半では段正と共同で大理路を治めていたようである[3]。
『元史』信苴日伝によると最終的に鎮国上将軍・大理金歯等処宣慰使都元帥の地位に至ったとされる[4]。
脚注
参考文献
- 林謙一郎「元代雲南の段氏総管」『東洋学報』78、1996年
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