段忠
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段 忠(だん ちゅう、生年不詳 - 1299年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)支配下の雲南における第3代大理総管。
概要
段忠の出自については第2代大理総管の段実の弟とする説、子とする説が混在するが、「元故副相墓碑」にて「正奉元帥(=段忠)」が「中奉大参(=段実)」の「宗弟」とされていることから、弟と見る説が主流である[1]。また、『南詔野史』では段忠を「道隆の子」とするが、これは第21代国王段祥興を指すと考えられ(道隆は段祥興が即位後に制定した元号)、やはり「段祥興の子で段実の弟」が正しいと裏付けられる[1]。
『南詔野史』によると、段忠は1263年(中統4年)にクチュの配下に入って両林・芒部・会川(雲南北部-四川南部の彝族地域)を討伐し、1265年(至元2年)には曲靖を攻め、1272年(至元9年)には武定を討伐するなど、主に軍事面で活躍していたという[2]。モンゴル支配下の大理では段氏の長が宣慰使部元帥、それに次ぐ人物が大理路軍民総管を務めるという慣習があり、段実存命中の段忠は段氏のNo.2として「大理等処宣慰使兼管軍民万戸府」(『大理府志』による)」を務めていたようである[3]。
その後、「元故副相墓碑」によると正奉大夫・都元帥に昇格となったようである[4]。段忠は『南詔野史』などによると1299年(大徳3年)に死去したとされる[1]。『南詔野史』のテキストによっては治世1年で1283年(至元20年)に没したとも記されるが、「元故副相墓碑」などの同時代史料と矛盾しており、後世の創作とみなされている[1]。林謙一郎は元代の雲南段氏が「宣慰使都元帥」「大理路軍民総管」の二頭体制であったにもかかわらず、後世の史家がただ一人の「大理総管」に治められていたと誤解したため、実態にあわない生没年を後世に創作したものと推定する[1]。
脚注
参考文献
- 林謙一郎「元代雲南の段氏総管」『東洋学報』78、1996年
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