森島修太郎
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森島 修太郎(もりしま しゅうたろう、1848年 - 1910年)は、日本の会計学者、教育者。商法講習所(現一橋大学)の第1期卒業生であり、後身の高等商業学校教授を務めた。
人物・経歴
和歌山県出身の東京府士族で[1][2]、慶應義塾を経て[3]、明治8年(1875年)に商法講習所(現一橋大学)に入学し、明治10年(1877年)3月に成瀬隆蔵とともに同所の第1回卒業生となった[4][3]。ウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの門下生として、卒業翌月の同年4月には同期の成瀬とともに商法講習所の助教心得に就任し、簿記を担当し、同年9月には助教となった[4][3][5]。
明治11年(1878年)3月、助教を辞職し、同期の成瀬が助教となった[5]。同年4月、三菱に入社[5]。三菱商業学校の運営に参加し、同校で教鞭を執り[1]、その後三菱本店副支配人を務めたが、明治18年(1885年)12月に退社した[1][5]。明治20年(1887年)には母校商法講習所の後身である高等商業学校(現一橋大学)教諭と兼任で高等商業学校幹事となり、奏任官四等に叙され[6]、文部省文官普通試験委員にも就任した[7]。
明治23年(1890年)には同期の成瀬とともに高等商業学校教授に任じられ、奏任官三等及び正七位に叙された[8][9]。明治24年(1891年)には高等商業学校附属主計学校主事を命じられ[10]、従六位に叙された[11]。明治25年(1892年)4月に、同期の成瀬とともに非職高等商業学校教授となり[12]、明治26年(1893年)3月まで農商務省より商工業に関する調査の嘱託を受け[5][13]、4月に退官し[14][15][16]、日本海陸保険支配人に就任[5]。
日本の簿記導入史において、森島の著書である『簿記学例題』や『簿記学第壱』は、アメリカ合衆国の会計学者であるE.G.フォルソムの「受渡説」を日本に紹介した最初の簿記書であり、後の日本の会計理論に大きな影響を与えた[3]。また、彼の著書『三菱商業学校簿記学階梯』や『民間簿記学』、『簿記学例題』は文部省検定済教科書になるなどした[3]。別名森島 脩一郎[2]。
親族
著書
- 『簿記学例題』森島修太郎、明治11年(1878年)10月[19]
- 『簿記学階梯』(森下岩楠と共著)、森下岩楠他、明治11年(1878年)10月[20]
- 『利足一覧表』弘文社、明治12年(1879年)11月[21]
- 『民間簿記学』(森下岩楠と共著)、中近堂、明治17年(1884年)8月[22]
- 『簿記学例題』弘文社、明治20年(1887年)11月[23]
- 『簿記学』金港堂、明治24年(1891年)7月[24]
脚注
- ^ a b c 簿記学階梯 / 森下岩楠, 森島修太郎合著 - 慶應義塾大学経済学部
- ^ a b 民間簿記学 巻之下
- ^ a b c d e 「明治初期の簿記導入史の研究 ―森下岩楠と森島修太郎の簿記書を通じて― 」久井孝則 - 桃山学院大学総合研究所
- ^ a b 「一橋と簿記と西川文庫」 - 一橋大学図書館
- ^ a b c d e f 一橋大学年譜Ⅰ
- ^ 官報 1887年10月18日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1887年11月24日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1890年10月16日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1890年05月16日
- ^ 官報 1891年08月18日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1891年12月22日
- ^ 官報 1892年04月11日
- ^ 官報 1893年04月01日
- ^ (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933863 大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書)
- ^ 官報 1893年04月25日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1893年04月28日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大衆人事録 第12版 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 帝国人事興信録 第14版 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 簿記学例題 - 国立国会図書館サーチ
- ^ 簿記学階梯 - 国立国会図書館サーチ
- ^ 利足一覧表 - 国立国会図書館サーチ
- ^ 民間簿記学 - 国立国会図書館サーチ
- ^ 簿記学例題 訂2版 - 国立国会図書館サーチ
- ^ 簿記学 - 国立国会図書館サーチ
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