梧陵と近代医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:22 UTC 版)
梧陵はさまざまな社会事業を手がけたが、とくに医学への支援を厚く行っている。 梧陵の支援と影響を受けた一人が、関寛斎である。寛斎は1856年(安政3年)、佐藤泰然の推薦によって銚子で医院を開業し、梧陵との知遇を得た。当時流行していたコレラの防疫に意を傾けていた梧陵は、寛斎を江戸の西洋種痘所(後の東京大学医学部)に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎(三宅秀の父)の下でコレラの予防法を学ばせ、銚子でのコレラ防疫に業績をあげた。後に西洋種痘所が火災により焼失すると、1859年に梧陵は種痘所の再開のために300両を寄付している。 その成果により、梧陵は寛斎を経済的に支援し、1860年(万延元年)長崎に留学させた。蘭学医・ポンペのもとで1年間学んだ寛斎は、1862年(文久2年)、銚子に戻る。梧陵は寛斎に長崎での留学を続けるよう勧めたが、寛斎は翌1863年に徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。寛斎はのちに梧陵の勧めに従わなかったことを悔いたという。 梧陵は1862年に出版された医学書『七新薬』(司馬凌海著、関寛斎校)の出版に関わる費用を援助するなど、日本の近代医学の発展にも深く関わっている。
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