桂歌之助_(2代目)とは? わかりやすく解説

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桂歌之助 (2代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/24 01:00 UTC 版)

2代目 かつら 歌之助 うたのすけ

結三柏は、桂米朝一門定紋である。
本名 北村 きたむら 和喜 かずよし
生年月日 1946年7月30日
没年月日 (2002-01-02) 2002年1月2日(55歳没)
出生地 日本岡山県
師匠 3代目桂米朝
弟子 3代目桂歌之助
名跡 1. 桂扇朝
(1967年 - 1975年)
2. 2代目桂歌之助
(1975年 - 2002年)
出囃子 たぬき
八島官女
活動期間 1967年 - 2002年
活動内容 上方落語
所属 米朝事務所
備考
上方落語協会会員(1967年 - 2002年)

2代目 桂 歌之助(かつら うたのすけ、1946年7月30日 - 2002年1月2日[1])は、岡山県岡山市出身の[要出典]上方落語落語家。本名∶北村 和喜[1]出囃子∶『たぬき』または『八島官女』[要出典]

来歴

大阪府立大手前高等学校卒業後、建築科の大学を志すも2浪で失敗する[要出典]。浪人中に3代目桂米朝小松左京が司会を務めた『題名のない番組』(ラジオ大阪)を愛聴し、それがきっかけで米朝の落語に惹かれる[1]1967年 7月に千日劇場に出ていた[要出典]米朝に入門し、桂扇朝を名乗る[1]1970年トップホットシアターで初舞台[要出典]

落語会開催のたびに不幸な出来事(下記詳細)が起こると評されたために改名を考え、姓名判断に凝っていた香川登志緒の勧めもあって[要出典]、1974年 1月[要出典]に歌之助を襲名した[1]

1987年から京都の鰻料理店で開かれている「かねよ寄席」は、歌之助が発起人の一人であり、世話役を14年間務めた[2]

1993年から2000年夏にかけて、合計100の演目を高座にかける落語会「桂歌之助百噺」を開いた[1]

1997年、3代目桂歌之助を見習いとして自宅に通わせている間に急性膵炎で入院し、正式な入門日も入院中だった[3]

35周年記念落語会を計画していたが[1]、それを控えた2001年9月に食道がんで入院生活に入る(余命3か月と宣告された)[3]。病状が小康状態にあった10月、院内で簡易の高座を作り入院患者相手に落語会を開いた[3]。演目は『狸賽[1]。このとき手伝ってくれた3代目(当時は桂歌々志)に「今日はありがとう。あなたと縁ができたのは私の自慢です」と手紙を送っている[3]。しかしその後回復することなく2002年1月2日に死去[3]。55歳没。息を引き取ったのは、師匠米朝が今後大きな会場では独演会をしないと銘打った、最後のサンケイホールの独演会、2日間興行の初日未明だった。米朝は著書で「一門による正月公演が始まる日、おめでとうのはずが、お悔やみになってしもうた。でも、そのお蔭で歌やんは毎年正月になると皆から思い出して貰(もろ)うてます」と記している[3]

芸風

ネタは幅広く、自作の新作落語も手がけた[1]橘ノ圓都からは口演の少なくなっていた演目を伝授された[1]やまだりよこは「知的ユーモアと含羞が高座に漂い、ウィットと情がにじむ洒脱な語り」という評を記している[1]

手作りの骸骨の人形(石川五右衛門の遺骨という設定)を操って噺をする珍品「善光寺骨寄せ」を得意ネタとしていた[3]。この噺は人形とともに弟子の3代目に受け継がれている。

米朝は歌之助の没後に「不器用な男でしたが、晩年何を聞いても、ええなあと思った」と述べた[1]

事件・事故との奇縁

落語会を開くたびに大きな事故が起こったり[3]、著名人の訃報があったりしたため、 不幸を呼ぶ男」「災害を呼ぶ男」という異名が付いてしまい[要出典]、本人も自嘲半分で「恐怖の大王」と称していた[1]。代表的なものでは天六ガス爆発事故[3]千日デパート火災[3]ホテルニュージャパン火災[3]日航機羽田沖墜落事故[3]コンコルド墜落事故のほか、江利チエミ志村喬ダイアナ妃の死去などがある[4]。特に、天六ガス爆発事故はデビューとなる落語会を開く予定の寺が負傷者や遺体の収容所になりデビュー延期、コンコルド墜落事故は「桂歌之助百噺」最終回当日といったように、重要な会が大きな事故と重なりその影響を蒙ったことも何度かあったことが、その印象を強くしている[要出典]

人物

愛称は複数あり、有名なものは桂歌丸と同じ「歌さん」。弟子の3代目歌之助も同じ愛称で呼ばれることがある。[要出典]ほかに「歌やん」があり、師匠の米朝は著書でこの呼び名を使っている[3][注釈 1]

米朝によると、普段は真面目だが飲酒すると荒れたという[3]。このため「飲む前は律儀と遠慮の人なのに」という川柳も作られ[3]、没後に出た書籍のタイトルにも使用されている[5]

実子がいなかったため、唯一の弟子である3代目をかわいがったという[3]

文筆家としての顔を持ち、川柳結社代表も務めた[1]

中島らもの小説「寝ずの番2」(短編集『寝ずの番』に収録)に登場する「橋次」や、かんべむさしの小説『泡噺とことん笑都』に登場する「桂朝之助」のモデルとされる[要出典]。また、SF作家の堀晃と交友があり、堀は歌之助の没後に関連書籍の編集に加わっている[5][6]

弟子

関連書籍

  • 堀晃ほか(編)『桂歌之助 飲む前は律儀と遠慮の人なのに』ソリトン・コーポレーション、2003年12月[5]

脚注

注釈

  1. ^ 現在は3代目の愛称になっている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n やまだよりこ 2010, p. 149, 物故者名鑑(二代目桂歌之助の項).
  2. ^ 2002-03-17 かねよ寄席で大喜利 - 桂米二メールマガジン(2002年3月17日)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 桂米朝、2007年、pp.168 - 171
  4. ^ 京の噺家 桂米二でございます 第24回 桂歌之助の千社札 - ウェイバックマシン(2004年4月7日アーカイブ分)- NIKKEI NET2004年1月10日
  5. ^ a b c 編集ノート  桂歌之助  飲む前は律儀と遠慮の人なのに  編集委員の勝手なページ”. 堀晃の SF HomePage. 堀晃 (2004年4月22日). 2023年1月14日閲覧。
  6. ^ 桂歌之助 飲む前は律儀と遠慮の人なのに - ウェイバックマシン(2003年12月8日アーカイブ分) - 堀晃ウェブサイト

参考文献

関連項目




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