校長とオルディナリウス職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 13:55 UTC 版)
「ミカエル・アグリコラ」の記事における「校長とオルディナリウス職」の解説
1539年、アグリコラはトゥルクに戻り、トゥルク聖堂の学校の校長に就任したが、彼はこの仕事を好まず、学生を「馴れていない動物」とこき下ろした。一方、グスタフ・ヴァーサは自らの権力を固めるために教会の財産を没収したが、同時に宗教改革も推進した。1544年、アグリコラはグスタフからの、有望な若者数人をストックホルムに派遣して骨の折れる仕事をさせよとの命令を受けた。しかし彼は翌年に同じ命令がより威嚇的な言辞で送られてくるまでそれに従わず、結果的に2人の関係に悪影響を与えた可能性もあった。 1546年、アグリコラは住処と学校をトゥルクの大火事で失った。1548年2月22日、グスタフ・ヴァーサはアグリコラに校長の職から退くよう命じた。このときにはアグリコラがすでに結婚していたが、現代ではアグリコラの妻についてその名前ピルヨ・オラヴィンテュタル(Pirjo Olavintytär、ほかには「オラヴィ(Olavi)の娘」ブリジット(Bridget)、ビルギッタ・オラフスドッテル(Birgitta Olafsdotter)、ブリギダ・オラウイ(Brigida Olaui)などの表記もある)しか知られていない。唯一の息子クリスティアン・アグリコラ(フィンランド語版)(ラテン語名クリスティアヌス・ミカエリス・アグリコラ(Christianus Michaelis Agricola)、1550年12月11日 - 1586年2月19日)は1584年にタリン司教に就任した。 とある老司教が1554年に死去すると、グスタフ・ヴァーサはアグリコラをトゥルク教区のオルディナリウス(英語版)に任命した。これは実質的にアグリコラをトゥルク監督、およびフィンランド初の監督を任命したことになる。アグリコラは宗教改革者としては献身的ではなく、改革を厳しく推進することもしなかったが、ミサ典文(英語版)だけは廃止した。
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