林退蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/14 15:27 UTC 版)
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林 退蔵(はやし たいぞう、生没年不詳)は、明治初期の日本の官僚・教育者。和歌山県出身。フランス語教育の先駆者として開成所・大学南校などで教鞭をとり、後年は大阪や和歌山において私塾教育に尽力した。
経歴
和歌山県の平民の出身。父は林良岱(1875年(明治8年)4月没、谷中霊園に葬られる)。
明治3年(1870年)10月、学制改革により大阪洋学校と大阪開成所が統合された際、大阪開成所のフランス語教官に任ぜられた[1]。明治5年(1872年)ごろの在任当時、英語教師は小泉信吉、フランス語教師は林退蔵であったと記録されている[1]。
明治5年10月13日(1872年11月13日)、文部省8等出仕となり、翌1873年8月10日に陸軍省7等出仕に転じ、第一局第六課分課に勤務した[2]。 その後、長野師範学校仏学文部大助教を経て、大学南校(のちの東京大学)では助教師として仏語および歴史学を担当した。南校時代には加藤弘之のもとで、箕作麟祥らと共に仏語教育に従事したと伝えられる[3]。
退蔵の門下からは加太邦憲などが出ており、彼は退蔵の講義でイギリス史やフランス史を学んだという[3]。
林は若者の教育にも理解があり、教育者の山本鶴太郎が上京した際、下谷黒門町の自宅に寄宿させ、その才能を認めて千葉師範学校への入学を勧め、学資一切を援助した。鶴太郎はのちに千葉県銚子市の教育界において長年校長を務め、地域教育の基礎を築いた[4]。
私塾活動
病により当時就いていた東京控訴院判事の職を辞したのち、故郷の和歌山に帰郷し、自宅でフランス語を教授した[5]。当時、板垣退助が自由民権運動を盛んに展開していた時代であり、退蔵もその思想に共鳴して各地の政談演説会に出席したとされる[5]。
また、和歌山日々新聞主幹下村房次郎や陸奥宗光の幕僚であった児玉仲児らと親交を結び、彼らの推挙により「明道館」という塾を開設。退蔵が館長となり、下村・児玉を講師として英・仏・漢学を教授した[5]。温厚で誠実な人格により、多くの門人に慕われたという[5]。
大阪英仏学校計画
1889年(明治22年)、大井憲太郎は山本憲や林らと共に大阪に新たな私立学校を設立する計画を立てた。この学校は漢学・英語・仏語を教授する予定であり、後年早稲田大学へと発展する東京専門学校(大隈重信主宰)を想起させる内容であったため、当時の人々の間では「改進党系の教育機関ではないか」との噂も立った[6]。
脚注
参考文献
- 武田葛城(明)『七顛八倒記』武田明、1943年9月1日。NDLJP:1108721。
- 伴忠康『適塾をめぐる人々 蘭学の流れ』創元社、1978年2月20日。NDLJP:12644396。
- 富田仁、西堀昭『日本とフランス 出会いと交流』三修社、1979年10月1日。NDLJP:12576667。
- 「千葉県の教育に灯をかかげた人々」編集委員会 編『千葉県の教育に灯をかかげた人々』 1巻、千葉県教育会館維持財団文化事業部、1989年3月1日。NDLJP:13145915。
- 霞信彦(前嶋信彦)『明治初期刑事法の基礎的研究』慶應義塾大学法学研究会〈慶應義塾大学法学研究会叢書〉、1990年10月15日。NDLJP:3059335。
- 『教育週報』第40号、教育週報社、1890年1月18日、NDLJP:1537080。
外部リンク
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