松原行一
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松原 行一(まつばら こういち、1872年5月22日 - 1955年11月8日)は、日本の化学者。東京帝国大学教授。位階は従三位、勲等は勲二等。
生涯
旧尾張藩士の松原八十一と、かぎ(同藩士藤岡徳良の妹)の長男として名古屋に生まれる。
一高を経て、1896年に帝国大学理科大学を卒業。1898年に家督を相続した。有機化学硏究のため、イギリスおよびドイツに留学し、マンチェスター大学のウィリアム・パーキンJr.やベルリン大学のエミール・フィッシャーのもとで学ぶ。東京帝国大学理科大学助教授を経て、1909年同大学教授となり、理学博士の学位を授けられる。無類の博識家として知られ、学術会議、国際会議、文部省各種検定、大学設置委員などを務めた。
また科学文献カタログの編集の他、『日本化学会誌』、『東洋学芸雑誌』の編集に長年携わる。
1933年、明治時代に着任した東京帝大最後の教官として退官する[1]。 著書である「彳?子(テキ チョク シ)雑纂」(1941)は正確な文献的価値の高い髄筆集として知られる[2]。1955年11月8日逝去。墓所は青山霊園。
親族
- 母 かぎ 嘉永4年8月生
- 妻 フミ(士族大室三郎の姉) 1879年3月生
- 女 禮子 1901年2月生
- 女 君子 1908年2月生
- 女 静子 1911年1月生
- 弟 芝丸 1878年12月生
- 弟妻 きぬ 1882年10月生、千葉県平民御園杢三郎の養女
- 甥 義雄 1905年3月生、芝丸長男
- 甥 武雄 1912年6月生、芝丸三男
- 姪ハル(1916年、芝丸三女)、東京府人御園理兵の養子[3]
脚注
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