松ヶ崎開削と日本海への流路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:05 UTC 版)
「新井郷川」の記事における「松ヶ崎開削と日本海への流路」の解説
かつて新井郷川は阿賀野川へ合流し、さらに信濃川に合流してはじめて日本海へ流出する河川であったが、阿賀野川水系の河川では江戸時代新発田藩の治水事業によって新潟砂丘を開削して直接日本海へ流出する放水路が次々に掘られ、紫雲寺潟の干拓に関連して1730年(享保15年)の松ヶ崎掘割開削が行われた結果、阿賀野川は日本海へと直接流出することになった。これに伴って水位が下がり、新井郷川流域を含む地域では新田とともに多くの村が創立した。 新井郷川と阿賀野川は江戸時代中期には新崎付近で合流していたが、その後合流点は引き下げられ、明治期には阿賀野川と加治川の合流点付近になっていた。その後1914年(大正3年)には加治川を加治川分水路により本流域から分離。さらに本川も阿賀野川からの逆流防止のため、昭和初期に入ってから単独で日本海に流出する分水路が開通した。 この分水路は1933年~1934年頃に開通したものであり、旧来の阿賀野川への流れは現在の派川新井郷川分水路にあたる。ここには1931年に「新井郷川閘門」が建設され、舟運の安全航行に役立っていたほか、水門としての機能も果たしている。
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