加治川分水路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/18 07:27 UTC 版)
明治時代に入ると加治川の排水不良による水害が悪化傾向にあり、加治川をなるべく短距離で日本海へ流そうとする分水路計画の機運が高まった。1874年(明治7年)には利害関係により頓挫したが、新潟県による加治川分水路工事が1908年(明治41年)に着工し、1913年(大正2年)に完成した。 分水路は現在の新発田市真野原から聖籠町次第浜まで4.9kmに渡り開削され、分派地点には加治川分水門が設置された(加治川本川に運河水門が4基、加治川分水路に土砂吐水門が4基)。平時には運河水門を開放、土砂吐水門を閉鎖することで、加治川本川の農業用水や舟運用の水深を確保し、出水時には運河水門を閉鎖、土砂吐水門を開放し、洪水を加治川分水路から日本海まで流下させた。 分水路の完成により、流域の水害は激減した。
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