村上信清
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時代 | 戦国時代後期 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文17年(1548年)[1] |
死没 | 寛永3年4月11日(1626年5月6日)[1] |
別名 | 左衛門[2] |
戒名 | 双弘[1] |
墓所 | 東光院[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 信濃村上氏 |
父母 | 父:村上成清[2] |
兄弟 | 信清、勝行遠[1] |
子 | 川勝重氏の妻、清政、川勝重氏の後妻、石巻康元の妻、男子[1] |
村上 信清(むらかみ のぶきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
経歴
系譜によれば信濃村上氏の一族。祖父の代より上総国久留里城に住んで古河公方・小弓公方に属し、小弓公方滅亡後は里見氏に従ったという[2]。天文23年(1554年)後北条氏の攻撃で父・成清が敗死する。この時、真勝寺の清心法印がまだ幼い信清・行遠兄弟を助けて城を落ち延び、兄弟は安房国に走った[2][3]。
後年上総に帰り、天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で徳川家康に仕官、上総国内に300石を知行する。当初は井伊直政に属した。弟の行遠が家老を務めていた縁で里見義康への使者を務め、功があった[2]。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いののち、武蔵国橘樹郡長尾・上作延・下作延に200石を加増[1][4]。寛永3年(1626年)77歳で死去[1]。
脚注
出典
参考文献
- 神奈川県企画調査部県史編集室 編『神奈川県史 資料編』 8巻、神奈川県、1976年。
- 濱田義一郎 編『大田南畝全集』 17巻、岩波書店、1988年。ISBN 978-4-00-091057-6。
- 『寛政重修諸家譜』 8巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。 ISBN 978-4-7971-0212-3。
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