本部移転と国際化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:45 UTC 版)
革命政権の崩壊により、イタリアにおけるカルボナリは衰退を始める。教皇ピウス7世が1821年9月13日、この蜂起を糾弾する声明を発表するなど、圧力も強まりを見せたため、カルボナリは本拠地をパリに移した。1821年当時は、フランスにおいてもカルボナリ(シャルボンヌリー)が結成された時期であった。イタリアのカルボナリは、この地においてフランスのシャルボンヌリーと連携。ウィーン体制の打倒を目指すヨーロッパ各地の自由主義者の支持を集め、国際的にはなおも勢力を拡大したが、彼らの思想に必ずしも同調しているとはいえないルイ・フィリップ(Louis Philippe)やルイ=ナポレオン・ボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte)を指導者に加えるに至って、大衆との乖離が進んだ。
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