木村政彦を破る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 04:11 UTC 版)
1936年(昭和11年)4月11日、福岡市で開催された第1回全日本東西対抗柔道大会(東西両軍32人ずつの抜き試合)に出場した。早稲田大学の永光伝や三船門下の堀野忠文、明治大学出身の西田東生の3人を抜き、4人目の明治大学姿節雄に抑え込みで敗れている。同年5月31日、宮内省皇宮警察が主催した柔道五段選抜試合で木村政彦を破った。この試合は朝日新聞の6月1日運動面に記録が残っており、阿部、木村ら5人が出場し、総当たり戦で阿部が4勝したという。木村の師匠・牛島辰熊が「木村は東京へ来てから、誰にもほんとには負けたことはなかったですけど、ただいっぺん済寧館で武専の阿部と試合したときだけはですね、阿部に完全にあつかわれて投げられたとです」と後日回想している。
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