日附についての混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 05:04 UTC 版)
原本に日附が記入されていないため、1939年10月11日から1941年1月21まで諸説入り乱れていた。しかし、NKGBはそもそも1941年2月3日に設置された機関なので、それ以前ということは考えられない。シャウレイで発見された文書の写しには、6月7日付の受領印が押されている。したがって、文書は1941年の2月から6月の間に作成されたものと考えられる。 セーロフ文書は、しばしばラヴレンチー・ベリヤが1939年10月11日に署名した全く別の文書、"001223号命令"と混同される。しかし、セーロフ文書の原本には日附は記載されていない。この混乱は米国会の「ソ連によるバルト諸国併合に関する特別調査委員会」が出版したセーロフ文書の全文の中で、"001223号命令"とセーロフ文書を混同していたことに端を発すると考えられる。セーロフ文書はNKVDによって起草され、ソビエト連邦にとって障害となる人々(反共主義者、元軍人、警官、大地主、企業家)がソ連刑法58条を根拠に強制送還の対象とされた。
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