日本の妲己像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:45 UTC 版)
日本においては、玉藻前伝説と結び付けられ、天竺の華陽夫人、周の褒姒と共に玉藻前の前歴として語られる。 また、希代の毒婦として『妲己のお百』が知られる。 お百は、京都九条通の賤家の生まれ。美貌の持ち主で、14歳で祇園中村屋の遊女となり、鴻池善右衛門に身請けされた。江戸役者津打友蔵と姦通し、江戸に下り、友蔵の死後新吉原の尾張屋清十郎の女房となり、佐竹家の臣である那河忠左衛門の妾となり、名を「りつ」と改めた。那河忠左衛門は旧名が那加采女で、秋田騒動の中心人物として宝暦7年(西暦1755年)6月処刑されたが、お百は奉公人であるとしておとがめなく、間もなく江戸に出て、高間騒動の高間磯右衛門の妾となったという。その間男性を殺害すること5たびにわたり、宝暦年間の退廃期を代表するとされる。
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