日本での生活とハインリヒの家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 09:55 UTC 版)
「ハインリヒ・フォン・シーボルト」の記事における「日本での生活とハインリヒの家族」の解説
日本橋の商家の娘岩本はなと結婚し、2男1女を儲ける。長男はハインリヒがウィーン万国博覧会に帯同中に夭折。その際の夫婦のやり取りを綴った手紙は子孫である関口家に保存されている。2008年、ハインリヒの没後100年に開催の記念展で公開された。その手紙には我が子を失った悲しみと共に、当時共同居していた異母姉楠本イネに当てて、憔悴しきっているであろう愛妻はなへの心配も綴られている。 その後、生まれた男子・於菟(オットー)は日本画家を目指し、岡倉覚三(天心)らの開いた上野の東京美術学校に見事一期生として合格するが、創作活動の中、体調を崩して25歳の若さで没した。 ハインリヒの妻、岩本はなは芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったと言われる。当時学習院の院長であった乃木希典はその宿舎主一館の躾け担当として、若くして子供を亡くしたはなを指名することとなる。また後には福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めた。ハインリヒの娘の蓮もその指導を受け、長唄の杵屋流、琴の生田流の免許皆伝を受けている。
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