新実験場建設へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:48 UTC 版)
「秋田ロケット実験場」の記事における「新実験場建設へ」の解説
IGY終了後も、より高い宇宙を目指し改良の続けられたカッパロケットは、1960年(昭和35年)にはK-8型が高度200kmまで達するようになり、このまま飛行高度が上がると、飛翔後の機体が日本海を越えて大陸に落下する恐れが出てきた。たとえ陸上に落下せずとも、李承晩ラインの存在していた当時、これを超えて大韓民国側海上に落下することがあっても問題となりかねなかった。道川からの打ち上げは高度300〜350kmが限界とされた。 この頃には在日米軍による海岸の利用制限も緩和されていたため、飛行高度の制約を解消するべく、太平洋側に新しい実験場を建設することとなり、1年近くかけて糸川英夫自ら足を運び候補地を検討した結果、鹿児島県肝属郡内之浦町(現肝付町)に白羽の矢が立ち、1962年(昭和37年)2月、「鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)」の建設工事が着工された(1963年(昭和38年)12月9日開所)。
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