断金隊編成以降
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1868年(慶応4年)3月、甲州の旧武田家臣の子孫らが、同じ旧武田家臣の子孫である板垣退助の徳を慕って名乗り出るや、これを聚めて遊撃隊を組織し、5月1日(4月9日)、江戸に転じて後、この部隊(総勢約150人)を断金隊と名付けてその隊長に任ぜられた。 1868年6月11日(閏4月21日)、日光の今市で合戦し、転じて北上する。 当時、三春藩は奥羽列藩同盟に加っていたが藩論は二分しており、三春藩の実力者である河野卯右衛門や、河野広中(信次郎)らは、密かに使者を仕立て官軍総督の板垣退助らと会い藩の帰順を申し出ていた。貫一郎は、三春城の無血開城に尽力して、三春藩は、7月26日に同盟を離脱し、これによって三春藩は賊軍の汚名を蒙ることが防がれ、さらには三春が戦火に晒されることも避けられて多くの人命が救われた。開城の後、三春藩は貫一郎の功を慕い滞留を求めたが、貫一郎はこれを固辞して賊敵の籠もる二本松城攻略のため高木(福島県本宮市)へ向かう。 1868年9月13日(慶応4年7月27日)、増水した阿武隈川を渡る際に、鉢巻を巻いた頭に日章旗を立て濁流に飛び込み溺死。享年25。
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