教養と文化受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 03:47 UTC 版)
舩津文渕は、幕府の御用絵師のような職業絵師ではない。寛永寺領七か村の農業経営に責任ある立場にあった。名主という社会的地位も高く、共同体の中で役割の重い舩津徳右衛門重許が絵も描いていたことになる。京都の商人であり、絵を画いていた伊藤若冲の生きざまとも似ている。舩津家には、四書五経や、『十八史略』、『唐誌選画本』などの漢籍や、俳書がある。これらの典籍の存在は、舩津家に限らず足立地区の有力農家や商人には共通の傾向であり、文化を支えた階層である。それは、とりもなおさず、文渕に絵を発注しこれを享受した家々である。明治の市民社会を最初に支えた人たちが、この中から出てくる。
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