敗戦・オーストリア革命とサン・ジェルマン条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:22 UTC 版)
「オーストリアの歴史」の記事における「敗戦・オーストリア革命とサン・ジェルマン条約」の解説
1918年10月、オーストリア革命によってオーストリア臨時国民議会が発足し、暫定憲法が定められた。新政府の中心は社会民主党が担った。11月には皇帝が「国事不関与」を宣言して実質的に退位し、共産党も成立したが、政府から弾圧され勢力を伸ばすことはなかった。かつての多民族国家オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した以上、ドイツ人地域のみでオーストリアが自立していくことには、否定的な考えが強かった。そのため、政府はドイツへの合併を望んでいた。 しかし、パリ講和会議では、ドイツの強大化を懸念するフランスなどによって、ドイツとオーストリアの合併は禁止された。1919年10月、政府はサン=ジェルマン条約を批准した。
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