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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 16:55 UTC 版)
モンマス城はシモン・ド・モンフォールが短期間所有したのち、1267年にランカスター伯爵でありヘンリー3世の息子のエドマンド・クラウチバックの手に渡った。彼は城を改修し、ホールを建て、その地域における主な居城とした。城はヘンリー・オブ・グロスモントによっても改修された。この時期、グレート・タワーの壁面上部に大きな装飾窓がしつらえられ、新しい屋根もつけられた。城の周囲で町が発展するにつれ、市壁 (town wall) および13世紀末建造の防塞化されたモノウ橋によって、城の防備はさらに強化された。 エドワード2世は短期間ここで幽閉されたことがあり、その後バークレー城(英語版)に移送され、そこで没した。ヘンリー4世は好んでこの城で過ごした。1387年、ヘンリー4世の最初の妻であるメアリー・ド・ブーンが、ここで後のヘンリー5世を生んでいる。 10年にわたるオーウェン・グリンデュアの反乱における騒乱と衝突は、モンマス城に直接の影響を及ぼさなかった。というのも、モンマス城はこの地域における要塞であり、つまるところのゲリラ兵たちにとって、他所をターゲットにした方が手っ取り早かったのだ。しかしこの地域の他の町、集落、城は、直接攻撃を受けている。例えばグロスモント(英語版)やアバーガベニー(英語版)は壊滅し、クリックホーウェル(英語版)やニューポート城(英語版)も攻略されている。 何世紀か過ぎ、防塞としての役割が縮小するにつれ、城の外壁の周囲はますます交易の場として使われるようになった。これが現在のアジンコート・スクエアにあたる。16世紀の間、モンマスは新しく定められたモンマスシャーの首府 (county town) となり、カウンティの巡回裁判所(英語版)が城のグレート・ホールで開かれるようになった。
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