扇の御馬印について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 15:53 UTC 版)
徳川家康の馬印の一つ「大馬印」の由来を述べている。大馬印の由来は諸説あるが、柳営秘鑑では本多中務大輔家由来説を次のように示している。 「一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年)安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。」 この記述は常山紀談でも、類似した話が掲載されている。 「金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸(ひのまる)附けたる馬印は、参河の設楽郡(注;宝飯郡の誤り)牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年(1563年)に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。其子忠勝が時に至りて、永禄二年(1559年)東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。」
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