慢心し敗れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 16:56 UTC 版)
紀元前699年(楚の武王42年)春、屈瑕が羅を攻撃すべく軍を出立させた。鬬伯比(若敖の子で、鬬㝅於菟の父)が屈瑕を見送ると、「莫敖は必ず敗れる。その爪先が高くそりあがり、心は慎重さに欠いている」と御者に語った。鬬伯比は武王に謁見して、援軍を派遣するよう願い出た。武王はこれをしりぞけたが、このことを夫人の鄧曼に告げた。鄧曼は「大夫は兵が多くないとおっしゃっているのではありません。君主たる者は信をもって小民たちを安撫し、徳をもって官吏たちを教え、刑をもって莫敖を脅すようおっしゃっているのです。莫敖は蒲騒の役で調子づいてからというもの、自らを恃むようになっています。羅を小国とあなどっていますから、あなたが引き締めなければ、きっと備えを設けていないでしょう」と言った。そこで武王は頼の人を派遣して屈瑕を追わせたが、追いつけなかった。屈瑕は軍中に「諫める者は刑に処す」と布告した。屈瑕の軍が羅に到着すると、羅と盧戎が楚軍を攻撃し、楚軍は大敗した。屈瑕は荒谷で首をくくって自殺し、部将たちは冶父で謹慎して処罰を待ったが、武王は「わたしの罪である」といって、全員を赦免した。武王は屈瑕の子の屈重を後任の莫敖に任じた。
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