愛する人たちの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 00:05 UTC 版)
1940年(昭和15年)、勘助とともに家族を支えてきた嫂の末子が蜘蛛膜下出血を起こして倒れる。末子を看病しながら、のちに日記体随筆となる「氷を割る」を書く。1942年(昭和17年)4月、末子が死去する。同年7月には、猪谷妙子も35歳で死去した。立て続けに愛する人たちを亡くし、勘助は病床の金一とともに残された。自身も老いてきたなかで不仲である兄の介護をひとりで行うのは困難と勘助は判断し、知人の紹介を受けて嶋田正武の娘・嶋田和子と結婚することを決意する。 1942年(昭和17年)10月12日、結婚式当日、勘助と和子の結婚式は予定通りに執り行われる運びだった。しかし、挙式当日に長い闘病生活に苦しんだ金一が自殺した。当日予定通りに結婚式は挙行されている。 結婚後、末子や妙子を追慕する随筆「蜜蜂」、「妙子の手紙」を執筆する。1943年(昭和18年)5月、『蜜蜂』を筑摩書房より刊行した。
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