延宝年間の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 05:05 UTC 版)
亀田藩は1673年(延宝元年)に新田開発が限界点に達し、家臣への知行も減少せざるを得ない状況にあり、1679年(延宝7年)に大正寺村での下り船に対して税の取立てを始めた。同年3月、久保田藩は亀田藩に強硬な談判を行い、亀田藩は「売り物」についてのみ課税するという返答を行った。これに対し、5月に久保田藩は再度売り物についての課税の撤回を迫った。その結果「下り船の課税は今後一切しない」(『梅津忠宴日記』延宝7年5月27日の条)との言質を取るに至った。 同日記の延宝7年5月29日の条には、中川宮内と小川九右衛門が矢島領境目検分の帰路に「大正寺新川堀之在所見分」をしたと記録している。これは、この地区の久保田藩領に新川筋を掘削して、亀田藩の下り船への取立へ対抗する計画であったと思われる。
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