崩れの前の弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:31 UTC 版)
その後も尾張藩を治めた松平忠吉によりキリシタンの庇護を受けるが、元和年間から弾圧が始まる。ただし、この時期の取り締まりは本格的なものではなく、尾張国丹羽郡高木村では寛永年間から布教が始められ、明暦・万治年間(1655 - 1661)には秘密裏にだがかなり大胆にキリスト教が広められた。 寛永8年(1631年)に、57人のキリシタンが検挙され、4人が火刑、53人が入牢となった。さらに入牢した者の中から44人が江戸送りとなった。同12年(1635年)9月、江戸幕府の命で尾張藩でキリシタン改めが始まり、訴人をする者に褒美を与える旨が書かれた高札が名古屋の町中に立てられた。その後も幕府は何度も尾張藩内のキリシタンを名指しで捕獲するように命じ、尾張藩は捕らえたキリシタンの多くを江戸に送って幕府の処分に委ねた。寛永14年(1637年)には尾張国下野村で300余人のキリシタンが斬首され、大きな穴に入れられて塚が築かれた。 正保元年(1644年)にはキリシタン改によって48名が摘発された。その中の6名が江戸送りとなるが、残った42名は処罰されることなく牢死、または病死し、最後の1人は貞享元年(1684年)に牢内で病死した。 尾張藩では、正保のキリシタン改めの後、崩れが発生するまでキリシタンの検挙は行われなかった。
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