島田母子の顕彰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:30 UTC 版)
慶応3年、津山藩内院ノ庄(現津山市院庄)に島田馬ノ丞なる人物の妻なかと娘浅野が自害をした。生活に貧窮していた島田が盗みを犯して入牢したため、藩にかは私たちであるとその罪を被り、釈放を求めての犠牲行為だった。寅二郎はこの事件を母子の犠牲にいたく感激し、母子の遺書を1万枚以上も印刷し、諸藩の知人に配布した。また、自ら碑文を記しては母子を顕彰し後世への偉業としようと活動した。寅二郎は友人たちの感想文を収録した『鳴鶴余音』なる文集を明治2年に出版。さらにその続編も出版しようとしたが、これは寅二郎が明治4年に死去したため出版されなかった。 顕彰碑は「貞烈純孝島田母子之碑」の銘で、慶応3年に、院ノ庄構城址に建立された。この構城址は、森忠政が津山藩に転封された後初めて拠点を構えようとした場所である。母子の犠牲は自らの階級に汲々としている士大夫たちに対する「頂門之一針」(警告)であると記している。2度も武士階級の壁に阻まれて不遇をかこっていた寅二郎は現状打破を試みて、母子の犠牲を美談にせんと躍起になっていた。この活動が諸藩の士に健在を示す形になったのか、慶応4年の復権へとなった。
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