岩亀楼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:23 UTC 版)
町の名主となった岩槻屋佐吉が経営する遊女屋は、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)と呼ばれ、遊廓の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って閲覧させていた程の設備を誇った。江戸幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。 遊廓とともに三転し、永真遊廓街へ移転後の1884年に廃業した。 岩亀楼の灯籠は、横浜市南区の妙音寺に保管されていたが、1982年12月に横浜公園内の横浜スタジアム脇にある日本庭園に移管されている。遊女達が病に倒れた際に静養する寮があった西区戸部町4丁目界隈は、現在でも「岩亀横丁」と呼ばれる。 1863年に、岩亀楼の遊女、亀遊が外国人の一夜妻を店主から命じられたのを拒み、「露をだにいとう大和の女郎花、ふるあめりかに袖はぬらさじ」の句を残して自害したと伝えられている。のちに有吉佐和子が小説にし、その後戯曲『ふるあめりかに袖はぬらさじ』として上演された。 高島町遊廓の近く(西区戸部町4丁目)に、岩亀楼の遊女が参ったと伝わる岩亀稲荷が現存する。
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