山下奉表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 01:46 UTC 版)
| 山下 奉表 やました ともよし |
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| 生誕 | 1882年4月1日 |
| 死没 | 1932年4月8日(50歳没) |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1903 - 1928年 |
| 最終階級 | |
山下 奉表(やました ともよし、1882年(明治15年)4月1日 - 1932年(昭和7年)4月8日)は、日本の海軍軍人、医師。最終階級は海軍軍医少将。
履歴
1882年(明治15年)、高知県長岡郡大杉村(現在の大豊町)に山下佐吉の息子として生まれた。1903年(明治36年)12月、海軍少軍医候補生となり海軍軍医学校で練習学生として学ぶ。同年9月、海軍少軍医に任官。同年12月、「秋津洲」乗組となり、日露戦争に出征。日本海海戦などに参戦した。その後、「高千穂」「松島」「日進」の各乗組などを歴任。
1909年(明治42年)12月、舞鶴海軍病院付となり、鎮海防備隊軍医長兼臨時建築部支部員などを経て、1912年(明治45年)5月から一年間、海軍軍医学校で甲種学生として学んだ。1913年(大正2年)5月、佐世保海軍病院付となり、「八幡丸」乗組などを経て、1914年(大正3年)12月、海軍軍医少監に昇進した。
呉海軍病院第二部長、舞鶴要港病院長などを歴任。1928年(昭和3年)12月、海軍軍医少将に進み軍令部出仕となる。同年12月に待命となり予備役に編入された。1932年(昭和7年)4月、50歳で死去した。
人物
幼少期は、やるだけのことをやり遂げないと絶対に遊ばない性格で、勉学中は弟の奉文を傍付けて勉強させるほどであった。小学時代は常に一番の成績を維持し、教師を希望するも家業の貯えでは望めないと知ると、苦学を覚悟で家を出る行動力を持ち合わせていた。向学心も高く、父親の家業を継ぐのではなく、東京で医者になるという立身出世の目標を立て、両親に打ち明けた上で、父・佐吉の渡した100円と着の身着のままで上京するが、その際に「奉文だけはせめて中学校に入れてやって下さい。一日も早く一人前になって仕送りをしますから」という兄としての配慮も見せていた[1]。
記憶力が高く、9歳の時に隣家の火災延焼で自宅の医院が全焼した際、弟の奉文の教科書のみを持ち出して脱出したが、後に奉文が「兄さんはあのときなぜ自分の本を出さなかったんじゃ?」と尋ねると「わしの本は一度読んでしもうた本だ。頭に入っている本なんかいらんもん」と平然と答えた。この言葉は奉文に多大な影響を与え、以後、一度読んだ本は記憶した上で他人に与え、生涯に亘って一度も蔵書を持たなかったという[2]。
親族
参考資料
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。
固有名詞の分類
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