小河良利とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 小河良利の意味・解説 

小河良利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 03:34 UTC 版)

 
小河 良利
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:三河守
主君 小寺氏黒田氏
氏族 小河氏
父母 父:小河義直[1]または小河長貞[2]
兄弟 良利信章
テンプレートを表示

小河 良利(おごう よしとし)は、戦国時代武将

出自

江戸中期の福岡藩士・加藤一純の編纂した『増益黒田家臣伝』によると、出自を遡ると治承・寿永の乱源義経に従って活躍した摂津国の武将・鷲尾義久の末裔とされ、その後も摂津に代々住んだという。嫡流のみを鷲尾氏と呼び、支流は全て小河氏と名乗ったという。一方で小河氏は播磨国在庁官人として知られ、室町時代には同国守護赤松氏守護代浦上氏の元で西播磨目代を務めた家柄であった。

『増益黒田家臣伝』によると、父は小河義直(よしなお、武蔵)[2]で、弟に信章(伝右衛門)と姉妹が一人あったとされる。当初は中播磨の雄・小寺氏に従っていたようで、『黒田家譜』では主君・小寺政職の「毛利氏織田氏のいずれにつくべきか」という諮問を同僚の小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)や江田善兵衛(えだ ぜんべえ)らと共に受けている。この時は孝高の「織田氏につくべし」という意見が採用されて小寺氏は一時織田信長の傘下に入るが、天正6年(1578年)には織田方から離反し、政職は居城の御着城に籠城する。その時の主な籠城者の名簿が「小寺政職家中記」に掲載されているが江田善兵衛と共に良利の名はなく、また小寺孝高は織田方に残留しており、良利らも小寺氏に従わなかった可能性もあるという[3]

後に弟の信章が黒田孝高に従軍して九州平定で活躍し、5,000石を与えられているが、良利はこの後に黒田氏領の中津(豊前)へ下向し、自身も1,370石を与えられて黒田家に仕えた。

関連作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 『増益黒田家臣伝』による。
  2. ^ a b 『姓氏家系大辞典』では小河信章の父を「周防守長貞」(ながさだ)としている。
  3. ^ 『播磨御着郡誌』による。
  4. ^ 当初は石田太郎が演じる予定だったが、放送前の2013年に石田が心筋梗塞で急死したため、配役を差し替えた上で撮り直しが行われた。

参考文献

  • 加藤一純『増益黒田家臣伝』
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』
  • 貝原益軒『黒田家譜』
  • 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌』



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  小河良利のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小河良利」の関連用語

1
主な家臣 ウィキペディア小見出し辞書
38% |||||

2
小河信章 百科事典
16% |||||

3
小寺家 ウィキペディア小見出し辞書
16% |||||

4
小寺政職 百科事典
10% |||||

5
石田太郎 百科事典
4% |||||

6
軍師官兵衛 百科事典
2% |||||

7
磯部勉 百科事典
2% |||||

検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小河良利のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小河良利 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS