小松原の法難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った。それを知った東条郷の地頭・東条景信は日蓮を襲撃する機会を狙った。同年11月11日の夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃した。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。この法難で、鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した。 11月14日、日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した。日蓮は道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、妙法蓮華経(法華経)に帰依するよう説いた。その後、日蓮は文永4年(1267年)まで房総方面(現在の千葉県)で弘教し、母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定される。
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