小ヶ瀬井路工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:13 UTC 版)
「塩谷正義 (代官)」の記事における「小ヶ瀬井路工事」の解説
しかし、正義にそれを悲しんでいる暇はなかった。日田地方の田島村一帯の水利が悪く土地も瘦せており、秋になっても実が実らずに稲を燃やしてしまうということが続いていたため、文政6年(1823年)から小ケ瀬井手の用水路工事に着手し、人手や資金、資材の確保や計画の進行に奔走していた。人手としては、1日で数十人から百人程度を常に確保し、資金は約1000両を集めた。 だが、工事は難航を極め、現在に残る碑文には 源ヶ鼻から現在の田島専念院下までのニ,ニニ二メートルの間の工事の井路の中心で、隧道工事は源ヶ鼻の堅石を掘り貫くため、一日に僅か二・三寸しか切り貫けないほどの難工事であった。会所山の隧道工事は酸素不足や落盤事故で苦しみ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を掘り、隧道の両側に石垣を築き、その上に平石を置いたり合掌式に石を組み合わせたりして落盤を防いだ。山すその隧道では明り取りの穴を掘ったりした。 と、当時の様子を伝えている。 そうした難工事を経て、文化7年(1824年)12月28日、試験通水が行われ、最終的に工事が完了したのは翌年4月であった。これと並行して日田・玖珠間の道路改修工事も行われた。 一方、この間に妻を亡くした正路が、文政6年(1823年)11月8日に両番入りを果たし、幕府の役人となっている。
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