宮島連絡船就航後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)
1897年(明治30年)9月25日、山陽鉄道の延伸に合わせて広島市在住の実業家早速勝三が、赤崎海岸に桟橋を設置。宮島間の航路を就航した。のちに、町有志の事業になり、山陽鉄道が買収。その山陽鉄道が国に買収されたことで、国の航路になった。これが、現在の宮島連絡船のルーツになっている。 1925年(大正14年)7月には、広島電鉄の前身の広島瓦斯電軌が、宮島線を地御前駅まで開業。駅から桟橋までは自動車で連絡。新宮島桟橋(現在の西広島バイパス高架合流付近)から宮島桟橋間の「新宮島連絡船」を就航させた。翌1926年(大正15年)には、宮島線は新宮島駅まで開業し、自動車による連絡は解消したが、1931年(昭和6年)の宮島線の電車宮島駅(現在の広電宮島口駅)開業で航路は廃止された。 1939年(昭和14年)には、「合資会社松大航運社」が設立。1957年(昭和32年)に「宮島松大観光船有限会社」に組織変更され、翌1958年(昭和33年)に広島電鉄の資本参加を受けた。これが、現在の宮島松大汽船のルーツになった。
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