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早速勝三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 09:45 UTC 版)

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早速 勝三(はやみ かつぞう、1847年12月2日弘化4年10月25日) - 1918年大正7年)11月6日)は、明治、大正期の広島県実業家芸備日日新聞社主、宮島連絡船を開設した人物である。

人物

現在の広島県広島市に早速民助の長男として出生。幼少時に両親と死別。浅野家の御小人を務めていた。

廃藩置県時に御小人は廃止され失業。当面は比治山(現在の広島市南区比治山)の早速本家に身を寄せたが、代書業を開業。まもなくして大手町一丁目(現在の中区大手町)に事務所を構え、1882年明治15年)には早速社として、書籍取次販売業に進出した[1]

早速整爾伝には、その時のエピソードとして、広島に電話が開通した時、真っ先に申し込みに行き、列が出来るのを待った上で8番目に並んだ。その上で、名前の早速(はやみ)に掛けて、8番の電話番号を得て満足した話が載っている。

進出した書籍販売業が当たり、本業の代書業より多忙になり事業を拡大。後に代書業を放棄した。書籍の広告の件で芸備日報(のちの芸備日日新聞)とも親密になり、業務の委託。さらには、芸備日報の発行元の芸備日報社を債券として受け取った。

受け取った「芸備日報」の紙名を芸備日日新聞に改め、また会社名を「芸備日報社」から「芸備日日新聞社」に改めて、部数を拡大。広島最大かつ、1895年明治28年)当時で全国で5本の指に入る出版部数の新聞社に育て上げた[2]

その他、個人企業である早速社を通じて、引き続いて書籍販売業をしたほか、薪炭業・時計販売・瀬戸内海内での廻船問屋運営。さらには、早速丸など数隻の所有。1897年明治30年)には宮島連絡船を開設した。1899年明治32年)に同航路を売却、を経由し宇品三津浜を結ぶ広島松山連絡航路を経営した[3]

また、運営する芸備日日新聞で、早速整爾との連名で対抗候補へのメッセージ掲載なども行っている[4]

1918年大正7年)11月6日、70歳で死去した。

また、養子の早速整爾は、芸備日日新聞の社主及び主筆を初め、県会議員、衆議院議員、さらには農林大臣大蔵大臣など、広島を代表する政治家になっている。

脚注

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  1. ^ 『中国新聞六十五年史』15ページ。
  2. ^ 『中国新聞百年史』31,32ページ。
  3. ^ 柴崎力栄「早速丸沈没事件に見る20世紀初頭の海事領域の象徴性大阪工業大学紀要人文社会篇56-2、2012年2月。
  4. ^ 『中国新聞八十年史』76,77ページ。

参考文献

  • 中国新聞社史編さん室『中国新聞百年史』(中国新聞社)
  • 中国新聞社史編さん室『中国新聞百年史 資料編・年表』(中国新聞社)
  • 中国新聞社『中国新聞八十年史』(中国新聞社)
  • 中国新聞社史編纂委員会『中国新聞六十五年史』(中国新聞社)
  • 中国新聞社『ひろしま歴史の焦点 下』(中国新聞社)
  • 『早速整爾伝(復刻版)』(麓邦三、出版者:板倉昭子)



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