宮原節庵
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宮原 節庵(みやはら せつあん[1]、文化3年10月8日[2](1806年11月17日) - 明治18年(1885年)10月6日[2])は、幕末から明治時代の儒学者、書家[2]。名は竜(あるいは龍)[2]、字は士淵[2]、通称は謙蔵[2]。号は節庵・潜叟・易安・栗村など[2][3]で、一般的には宮原節庵で通る[3]。
略伝
備後国尾道(現広島県尾道市)で渡橋貞兵衛(忠良)の五男として生まれる[4][5]。宮原は父方の祖先の姓であり、のちに継ぐ[5]。渡橋(おりはし)家は尾道の豪商の一つであり、当時尾道商人たちで形成していたサロンのメンバーの一人であり[6]、菅茶山や頼山陽などの当代を代表する文化人と交わっていた[5]。山陽が渡橋家に泊まり、その際に節庵を弟子にしたとされる[4]。
京に出て、山陽の家塾に入塾する[4]。内弟子同様で[1]、初めは同郷の橋本竹下に世話になったという[4]。後に山陽の塾で頭角を現す[4]。27歳のとき山陽死去[1]。その後は江戸に出て昌平黌(昌平坂学問所)に学ぶ[2]。
京都に戻り家塾をひらいた[2]。門下生には跡見花蹊・武井守正がいる。明治18年死去。著書に『節庵遺稿』がある。
備考
- 節庵は山陽の中国筋東行に随行した[1](頼家の本家は竹原にあり、京都から竹原への途中には尾道がある)。また山陽の母である頼梅颸の大和・伊勢旅行にも随行し、寵愛を受けた[4]。
- 節庵の晩年の筆跡は師の山陽を凌いだと伝わる[4][5]。
- 別号に潜叟(せんそう)を用いた。節庵の書は全国で求められていたが、潜叟署名の書は九州では西南戦争と音が通じるとして好まれなかったという[2]。
脚注
- ^ a b c d 市島春城『随筆頼山陽』早稲田大学出版部、1925年、414-433頁 。2025年2月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “宮原潜叟”. コトバンク. 2025年2月7日閲覧。
- ^ a b “易安宮原龍、行書七絶”. 大東文化大学東洋研究所. 2025年2月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g 鷹橋明久「橋本竹下『竹下詩鈔』の序文、跋文について」(PDF)『尾道文学談話会会報』第8号、尾道市立大学芸術文化学部日本文学科、2018年2月、25-27頁、2025年2月7日閲覧。
- ^ a b c d “尾道が生んだ美人画家姉妹”. 尾道市立美術館. 2025年2月7日閲覧。
- ^ “2003年、尾道に戻ってきた玉蘊の古鏡”. 尾道市立美術館. 2025年2月7日閲覧。
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