安住寺 (恵那市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/04 00:30 UTC 版)
安住寺 | |
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所在地 | 岐阜県恵那市明智町杉野1060 |
位置 | 北緯35度19分22.5秒 東経137度24分03.2秒 / 北緯35.322917度 東経137.400889度座標: 北緯35度19分22.5秒 東経137度24分03.2秒 / 北緯35.322917度 東経137.400889度 |
山号 | 久昌山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 大永5年(1525年) |
開山 | 柏庭宗松 |
開基 | 遠山景行 または 安住寺尼 |
正式名 | 久昌山 安住寺 |
札所等 | 恵那三十三観音霊場十九番 |
法人番号 | 4200005009459 |
安住寺(あんじゅうじ)は、岐阜県恵那市明智町杉野にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は久昌山(きゅうしょうざん)、本尊は釈迦如来[1]。恵那三十三観音霊場十九番。
歴史
大永5年(1525年)、明知城主であった遠山景行によって創建されたと伝わる。[1][2]。
永禄年間(1558年~1570年)の始めに、以前からあった小庵を景行の室の安住寺尼が、安住寺として開基したという説もある。[3]
開山は本如実性とされるが[2]、実際には法嗣で三河国東加茂郡萩平に三玄寺を開山した柏庭宗松とする説がある[1]。
元亀元年(1570年)、遠山景行が上村合戦に敗れて自害した後に、首級が密かに運ばれて埋葬されたと伝えられており、寺の敷地には景行と妻の安住寺尼の墓所があって、頭部の疾患に霊験があるとされている[1]。
景行の墓碑には、以下の文言が刻まれている。
遠山元祖 前相模守 嘆乎内室 先逝十年 慕碑建 寺爲施田山 称法名 曰 光林妙珠従然 後来 元亀辛未 極月念八 上村戦塲 功成自殺 住持直行遂得 公頭 如法 葬送 則景行也 上件語者因 光師 記以揚大較 冀後来生 明知 此由無怠 祭詞 到億萬年
慶長年間には、江戸幕府の交代寄合となった遠山利景が杉平村の内から十二石余を寺領として寄進している。
江戸時代の末期と明治元年(1868年)の二回、火災により全山を焼失し、後に再建されている[1]。
昭和50年(1975年)12月1日、遠山景行の墓は旧・明智町の文化財に指定された。
平成16年(2004年)明智町が恵那市への合併に伴い、恵那市指定文化財となった[4]。
恵那三十三観音霊場では十九番札所となっており、聖観世音菩薩を祀っている[2]。
指定文化財・天然記念物
恵那市指定文化財
- (史跡) 遠山景行の墓
彌勒殿
安住寺から西方向に約1.3kmの恵那市明智町野志にあり、安住寺が管理している。
弥勒菩薩像は、身の丈が3尺(約1m)の伽羅木造で行基の作と伝わる。
当初は、野志村の井戸上に創建された。創建された年月は不詳である。
万治元年(1658年)9月に、勝太郎左衛門が願主となって、尾張の仏師の森庄九郎が再興した。
宝永元年(1704年)8月に、庄屋の根崎助左衛門らによって堂が再建された。
正徳2年(1712年)に庄屋の喜兵衛らにより、現在地の野志村の荒槙に堂を建立し奉遷した。
享保10年(1725年)、庄屋の根崎孫兵衛は信者達の念佛の奉加[5]の浄財で、現存する弥勒菩薩と阿弥陀如来の厨子を建造して奉納した。
享保14年(1729年)、根崎孫兵衛が、京都の仏師の竹内幸助に託して修理したことが台座に銘記されている。
明治7年(1874年)1月、岐阜県の県令より開扉仏の認可を受けて、その後は17年毎に開扉法要を厳修している。
明治23年(1890年)8月に火災により堂が全焼した。しかし厨子と仏像は村人によって運び出されたため無事であった。
その後、村人や近郷近在の信者からの支援によって、明治24年(1891年)3月に、現在の堂宇が完成した。
なお、弥勒菩薩像は、武運長久と耳病平癒で知られ、野志村から日清戦争以後に出征した者で直接銃弾に倒れた者が無かったとされる。
また耳病平癒の満願には、錐12本(月の数)の奉納がなされ、堂前の格子には手作りの錐が累々と架けられている。
堂の前には六地蔵が彫られた石幢がある。
指定文化財・天然記念物
恵那市指定文化財
- (彫刻) 弥勒菩薩像
関連項目
参考文献
- 『明智町誌』 第六編 文化 第二章 宗教 第二節 寺院 p375~p379 明智町 1960年
- 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年
- 『岩村町史』 一三、岩村城主諸氏の交替 (二)遠山景行と遠山塚 安住寺碑 p162~p163 岩村町史刊行委員会 1961年
- 『全国寺院名鑑』 全日本仏教寺院名鑑刊行会 1969年
脚注
- ^ a b c d e 全国寺院名鑑(1969)、岐阜県-36
- ^ a b c “恵那三十三観音霊場めぐり”. 恵那市観光協会. 2018年12月24日閲覧。
- ^ 明智町誌 p376
- ^ “恵那市文化財マップ” (PDF). 恵那市 (2018年8月23日). 2018年12月24日閲覧。
- ^ 寺社の造営、仏像の造立あるいは橋梁の建造などに際して寺社側の勧進に応じ、金品や財物を寄進してこれを援助すること。奉納・寄進・布施などと同様の行為
- ^ 庚申講と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかしとして建てられたもので、月待塔とも言う。
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