宇佐神託と左遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:23 UTC 版)
詳細は「宇佐八幡宮神託事件」を参照 大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂が宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。 神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4年8月21日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から光仁天皇に言上された。 道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された。(以上、「続日本紀」) 龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
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