学界に権威を持ち込んだニュートン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:04 UTC 版)
「王立学会」の記事における「学界に権威を持ち込んだニュートン」の解説
1703年にロバート・フックが死んだあと、アイザック・ニュートンが会長になった。ニュートンは死ぬまでの24年間会長にあり、175回開かれた評議会に161回出席した。ニュートンは1710年に会をグレシャム・カレッジからクレイン・コートに移転することを強行した。その際フックに関係したものはすべて移さなかった。このためフックの実験機器も肖像画も行方不明となり、フックの墓もどこか分からなくなった。1711年にニュートンは評議会に改革案を提示した。その内容は、 会長を除いて何びとも上座に着席してはならない。2名の書記は下座の両側にそれぞれ1名ずつ着席すること。賓客を除く他の会員は会長の判断に従うこと。 会合では会長に話しかける場合を除いて、何びとも私語をしても、教会の活動を中断させるような大声を出してはならない。 というものであった。フックが実験を見せていたときには、参加者は実験に加わったり、参加者の発案で実験に工夫を加えることもあったが、ニュートンは学会の会合を儀式のように変えてしまった。また、ニュートンは外国の偉い人が会長ニュートンを敬い、学会を訪問してあいさつをすると、外国人会員に選ぶこともはじめた。これには多くの科学者が反対したが、ニュートンを尊敬する人が評議員に増えると、当たり前となった。
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