娑葛の時代
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景龍年間(707年 - 710年)、娑葛は唐に使者を遣わして謝意を表した。中宗は使者を引見して労い、下賜品を賜った。まもなくして、娑葛は父の配下武将であった闕啜忠節と激しく争い戦った。 708年、娑葛は闕啜忠節の罪を朝廷に訴えた。時に兵部尚書の宗楚客が朝廷で勢力をふるっていたので、闕啜忠節は密かに遣使を送って金七百両を宗楚客に賄賂して入朝しなくてもよくし、吐蕃を誘って娑葛を攻撃させ、報復しようとした。宗楚客はすぐに御史中丞の馮嘉賓に節を持たせて事にあたらせた。馮嘉賓は闕啜忠節と書簡を交換したが、娑葛の巡邏兵にこれを奪われた。11月、謀りごとを知った娑葛は兵を発して安西の撥換(亀茲)・焉耆・疏勒を襲撃し、闕啜忠節を生け捕り、馮嘉賓を殺した。自ら可汗と称した娑葛は弟の遮弩に兵を率いさせて塞(長城)で略奪させた。娑葛は安西都護の牛師奨と火焼城で戦い、牛師奨を戦死させて安西を陥落させ、四鎮路を封鎖した。娑葛は表を奉って宗楚客の首を求めた。安西大都護の郭元振は表を奉り、娑葛の行状が正しく、当然赦されるべきであることを述べた。中宗は詔で娑葛の罪を赦し、冊立して十四姓可汗とした。 709年7月、娑葛が遣使を送って唐に降ったため、中宗は娑葛を驍衛大将軍・衛尉卿・金河王・帰化可汗(欽化可汗)とし、守忠の名を賜った。時に娑葛は弟の遮弩とその部を分治していたが、遮弩が自分の部衆が少ないのを妬み、兄に叛いて東突厥の默啜に帰順した。遮弩は道案内をして帰り、兄を攻撃することを願い出た。默啜は遮弩を留め、自ら兵2万を率いて娑葛を攻撃し、これを捕えた。默啜は帰国すると娑葛、遮弩の2人とも殺してしまった。默啜の兵が還ると、娑葛の配下部将である蘇禄が余衆を寄せ集め、自ら可汗となった。
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