娑葛の時代とは? わかりやすく解説

娑葛の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 02:30 UTC 版)

突騎施」の記事における「娑葛の時代」の解説

景龍年間707年 - 710年)、娑葛は唐に使者遣わして謝意表した中宗使者引見して労い下賜品を賜った。まもなくして娑葛は父の配下武将であった闕啜忠節激しく争い戦った708年娑葛は闕啜忠節の罪を朝廷訴えた時に兵部尚書の宗客が朝廷勢力ふるっていたので、闕啜忠節密かに遣使を送って七百両を宗客に賄賂して入朝しなくてもよくし、吐蕃誘って娑葛攻撃させ、報復しようとした。宗客はすぐに御史中丞の馮嘉賓に節を持たせて事にあたらせた。馮嘉賓は闕啜忠節と書簡を交換したが、娑葛巡邏兵にこれを奪われた。11月謀りごと知った娑葛は兵を発して安西の撥換(亀茲)・焉耆疏勒襲撃し、闕啜忠節生け捕り、馮嘉賓を殺した。自ら可汗称した娑葛は弟の遮弩に兵を率いさせて塞(長城)で略奪させた。娑葛安西都護の牛師奨と火焼城で戦い、牛師奨を戦死させて安西陥落させ、四鎮路を封鎖した娑葛は表を奉って宗客の首を求めた安西大都護の郭元振は表を奉り娑葛行状正しく、当然赦されるべきであることを述べた中宗は詔で娑葛の罪を赦し冊立して十四可汗とした。 709年7月娑葛が遣使を送って唐に降ったため、中宗娑葛を驍衛大将軍衛尉卿金河王・帰化可汗(欽化可汗)とし、守忠の名を賜った時に娑葛は弟の遮弩とその部を分治していたが、遮弩が自分の部衆が少ないのを妬み、兄に叛いて東突厥默啜帰順した。遮弩は道案内をして帰り、兄を攻撃することを願い出た默啜は遮弩を留め、自ら兵2率いて娑葛攻撃し、これを捕えた。默啜帰国する娑葛、遮弩の2人とも殺してしまった。默啜の兵が還ると、娑葛配下部将である蘇禄が余衆を寄せ集め、自ら可汗となった

※この「娑葛の時代」の解説は、「突騎施」の解説の一部です。
「娑葛の時代」を含む「突騎施」の記事については、「突騎施」の概要を参照ください。

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