天寧寺開山、佛通寺開山そして遷化まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:45 UTC 版)
「愚中周及」の記事における「天寧寺開山、佛通寺開山そして遷化まで」の解説
その後は都を離れ、各地を山林修行に専念した。そして貞治4年(1365年)には丹波の地頭の金山宗泰が愚中周及を開山として招いて開いた、丹波国天寧寺で、多くの修行者を指導した。 そして応永2年(1395年)には日本各地を行脚していた。愚中周及が紀伊国(和歌山県)の龍門庵から九州に赴く途中、安芸(広島県三原市)に立ち寄った時、かねて愚中周及の名声を聞いていた小早川春平(?-1402年)の深い帰依を受け、応永4年(1397年)、小早川春平開基、愚中周及開山で、佛通寺を開創した。寺名は愚中周及の中国の師である佛通禅師(即休契了)の号をとってその寺号としている。 そして愚中周及の名声は遠く都の将軍にまで伝わり、応永14年(1407年)、足利義持は使者を遣わして愚中周及に法語を求めている。その後それを足利義持が後小松天皇にその旨を奏したことにより、天皇から南禅寺と並んで紫衣地とする旨の諭旨が、佛通寺に下賜された。応永16年(1409年)8月、天寧寺にて示寂。世寿87。その後仏徳大通禅師と勅諡された。遺骨は天寧寺と佛通寺の両寺に埋葬され塔が建てられている。
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