大学計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:59 UTC 版)
1311年ダブリン大司教レーチェは教皇クレメンス5世からの教皇勅書においてダブリンに大学を設立する許可を得た。1320年にこの計画は完成したが、大学の規則の確認は教皇ヨハネス22世とレーチェの次のダブリン大司教であるアレクサンダー(英語版)が行った。規則においては聖パトリック大聖堂とクライストチャーチ大聖堂双方の聖堂参事会(Chapter)について言及されており、ある程度権限を与えられていた。その狙いは前者で講義を行うためであったと見られている。 当時の聖パトリック大聖堂の首席司祭(Dean)であるウィリアム・ロッドヤードは大学の初代学長に選ばれ、そして1358年、イングランド王エドワード3世は学生に保護を与える特許状を発布した。1364年には神学講師(Divinity Lecture)は寄付を受け、さらに1496年、教区会議は大学の講師たちに俸給を与えた。 大学はヘンリー8世の下での大聖堂組織の解散とともに終わりを告げた。これには大主教のジョージ・ブラウンが存続を試みており、その後の大主教アダム・ロフタスも(彼がダブリン大学トリニティー・カレッジの初代学長になるまでは)当初これを支持していた。後には、聖パトリック大聖堂の首席司祭であったジョナサン・スウィフトは聖パトリック大聖堂の聖堂参事会がある程度権限を保持したと信じていたと見られる。
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